マチコト
2014/7/31 三河花火
三河花火の起源は江戸初期。
天下泰平の世を実現させた江戸幕府・初代将軍・徳川家康が、生誕の地である三河に火薬の製造と管理を限らせたことから、その歴史は始まりました。

徳川家康は「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼし徳川幕府の支配体制を確立させ、戦国時代を終わらせました。戦が終わった事で、火薬技術は武器に使用する必要がなくなりましたが、家康は火薬の威力を知っていたので、戦を起こさせない為にも鉄砲・火薬の製造を制限し, 原則として、目の届く、故郷である「三河」だけに火薬の製造を許しました。 そして、その火薬技術を平和使用するために「花火」がこの地で始まり、三河から花火の製造や花火師が誕生し、「三河花火」と呼ばれるようになったそうです。

岡崎の花火は, 江戸時代初期から行われていましたが, 本格的な花火が祭りで使われるようになったのは 18世紀末ごろ。 稲富流・武田流・一光流などいくつかの流派に分かれて発展し,更に 祭りに参加する町内ごとに互いの技術を競うことにより, 三河花火の名は全国に広まりました。

そんな歴史と伝統を背景に今年も「岡崎城下 家康公夏祭り花火大会」が開催されます。今年は8月2日(土)です。岡崎の夜空を飾る花火に泰平の世を願った家康の想いに心を馳せてみてください。
2014/7/24 おいでん祭り
「豊田おいでんまつり」の歴史は、昭和43年に行われた「豊田まつり」に端を発します。自動車産業の発展とともに人が集まり、市町村合併で大きくなった豊田市。町が発展するにともない移住者も増え、地元民との交流を目的に行われるようになった祭りは当初は「市民民謡大会」と「花火大会」を中心に伝統行事として行われていたようです。

その後、高知の「よさこい祭り」を参考にした「おいでん踊り」がはじまり、「マイタウンおいでん」「おいでんファイナル」と名付けられたコンテストが行われるようになりました。

「マイタウンおいでん」とは、市内各地で、それぞれの地域で楽しむ踊りで、高校野球で言うと地区大会。そして「マイタウンおいでん」から選抜されたグループが高校野球でいう甲子園である「おいでんファイナル」へと進みます。

このようにして豊田おいでんまつりは、夏の一時期に楽しむお祭りとしてではなく、コンテスト性を取り入れて市民のコミュニケーションをはかる祭として愛されています。

この「おいでんファイナル」、今年は7月26日(土)名鉄豊田市駅東側一帯で行われます。ちなみに7月27日(日)の夜には豊田スタジアムを中心とする矢作川周辺で毎年約1万5千発の花火も打ち上げられますよ。今年も豊田市で熱い夏の思い出を作ってください。
2014/7/17 長者町
今日は地名のお話です。名古屋市中心部にかつてあった「長者町」をご存知ですか?

かつて織田信長は、清須城を本拠地としていました。その「長者町」は元々、清須城下にあった地名なんだそうです。

ところが、1610年、徳川家康によって、清須城下町は名古屋城下に移転されました。名古屋城を北に、南北には現在の本町通、東西には伝馬町通がつくられ、これを中心に、碁盤の目の名古屋城下町ができました。

いわゆる「清須越し」といわれる、住民大移動は、家臣、町人のみならず、清須城下の町屋のほとんどが移転することになり、「町名」も移転したことで、清須城下にあった「長者町」も名古屋城下に移転したというわけです。

その後、空襲で焼けた町は、再建によってビルが建ち並び、1960年代に、由緒ある町名も変更されたそうです。長者町、茶屋町、蒲焼町、八百屋町、魚町、伝馬町、小田原町、塩町、鉄砲町、桶屋町、呉服町は、栄、丸の内、錦と名前を変えてしまいました。その理由は、郵便配達などの利便性を図るためだったとか。利便性の為に歴史が塗り替えられるのは、ちょっと悲しいですね。

そこで、「これでは町の良さ、誇りが消えてしまう!歴史を復活させ、郷土愛を取り戻そう」と『長者町』の復活を目指す有志の会が発足。先日、河村市長に要望書を提出したそうです。

これに対して市長も賛成!今後は議会の議決が必要となり、登記の変更などで、住民や企業の経済的な負担が生じる可能性もあるので慎重に進めているようですが、
味のある町の名前「長者町」が復活する事で、新しい観光客にも期待出来るかもしれませんね。
2014/7/10 大アサリ
この時期、旅館や居酒屋はもちろん、バーベキューや海の家などで人気といえば「大アサリ」。
正式には「ウチムラサキ」という二枚貝です。

「大アサリ」といっても、けしてアサリが大きくなったものではなく「大アサリ」もアサリも、そしてハマグリも同じ「マルスダレガイ科」に属する二枚貝なんだそうです。貝を覆っている薄い膜の跡が「天の橋立」に似ていることから、京都では「ハシダテガイ」とも呼ばれるそうです。

関東ではホンビノス貝を「大アサリ」と呼ぶところもあるので注意が必要ですが、このエリアで親しまれている「大アサリ」は約10cmの大きな二枚貝で、貝殻が厚くて硬く、名前の由来どおり貝殻の内側が紫色です。

「大アサリ」はアサリのように簡単に潮干狩出来るものではありません。比較的浅い場所に生息するアサリと違って「大アサリ」は水深10メートル以下の所に生息しているそうです。

北海道から中国大陸まで広く生息していますが、三河湾では特に名物となっている「大アサリ」。食べ方は、生で食べると渋みがあり、煮ると身が硬くなってしまうので包丁で真っ二つに切って、網で豪快に焼くのがお勧め!濃厚な旨味はビールにもぴったりですよ。今年も旬は残りわずか!大アサリで夏の思い出に彩りを添えてください。
2014/7/3 名古屋扇子
夏本番を前に最盛期を迎えているのが「名古屋扇子」作り。名古屋は、京都と並ぶ扇子の2大産地として知られています。

名古屋扇子は、徳川将軍9〜10代の宝暦年間に、京都から現在の名古屋市西区幅下地区へ移住してきた「井上勘造 親子」によって始められ明治時代からは、中国・朝鮮半島への輸出により年間1000万以上の生産高もあげるなど、名古屋扇子の産地となっていました。しかし、戦後、変動為替相場制へ移行する中、急激な円高が進行し、輸出は大幅に減少。 その後、販売促進用のギフトやイベント用のノベルティグッズとしての活路を見出します。

京都の「京扇子」は茶道や舞踊などで使われますが、「名古屋扇子」はご祝儀や儀式用をはじめ、実用的な扇子です。

扇子の生産工程は大きく分けて5段階。骨作りや絵付けなど、そのすべてが職人の手仕事。職人の伝統技術の積み重ねで生まれた名古屋扇子は「モノ作り王国・名古屋」が生んだ機能性豊かな芸術品です。

江戸時代には、その形から「末広」と呼ばれ、縁起物として愛されました。その昔、戦国武将も「もう一本の刀」として愛した扇子。アナタも今年は、暑さに負けないように「名古屋扇子」を片手に夏を乗り切りませんか?